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物語によって、人は現実から遠ざけられるだろうか

映画批評家の大寺眞輔さんという人が解りやすく言葉にしてくれた。すげぇ。的確だよ。
「主人公は僕だった」を見た人は後半解りやすいかも
抜粋だが「その物語ってものは現実以上に魅力的で、現実以上に影響力があって、要するに現実以上にパワフルなわけ?その物語に捕らわれることは、何か特別な体験を人に与えてくれるものなの?」という自問

それに対してこう続ける

確かに物語りに捕らえられてしまう事はある
それが特別な体験であって欲しい。いや、現実以上にパワフルなものであって欲しいとむしろ願う事さえあるだろう。しかし、同時に言っておかなくてはいけなくてはいけないのは、私たちが実にしばしば、あまりにも頻繁に物語によって捕らえられ、しかもそれが、もはや特別な体験でもないという事実
むしろこういうべきか、私たちがが生きているこの現実は、無数の特別ではない物語によって、既にあらかじめ覆いつくされてしまっている。
特別な物語、特別な体験もきっとどこかに残されているだろう。
しかし、その希望はしばしば見失われてしまう。
特別でない物語の山から特別な物語の選び出す事は、あまりにも難しい作業であるからだ。いや、それはもはや不可能な事かもしれない。
無数のくだらない物語に支配されてしまった現実は、特別な物語からも遠ざけられてしまっている
特別な物語、あるいは生き生きとした本来の現実を取り戻す事が、ここでの焦点なのだろうか?
「トゥルーマンショー」「エド」これらの作品では、主人公たちの普段の日常生活がテレビのショーとして演出されお茶の間に提供されるという形式をとっていたがその背後に観客である私たち自身の日常が出来の悪いショウにしか思えないという感覚が秘められていた。
同様の事実は「主人公は僕だった」に対しても指摘する事が出来る
「トゥルーマン」が最終的に自身の意志によってショウから抜け出したのに対し「主人公」の「僕」は最後まで全能の語り手の意志に支配され続けている
しかもその語り手とは女性小説家に過ぎず、さらにこの作品事体の全能の語り手(監督?脚本家?プロデューサー?)と文学教授を演じたダスティンホフマンに逆らって言うならば、彼女が作り上げる物語もまた文学史上の傑作のようなものであるとはとても思えない。
これはより性格印私たちの感覚を反映しているといえるのではないだろうか
つまり、私立ちは、誰かつまらない他人の書き上げた、ちんぷで汎用名無数のものあたりの1つを生きているに過ぎず、底から抜け出そうと試みもまたつまらない物語の1つをなぞるだけなのだ
ラストでは小説家の語りに飲みたくされていた何者かが、ここではさらに、一歩進めた形で予見されているように見えるのだ。
それはいったいなんだろう?
特別な物語からも、生き生きとした見放された私たち自身の日常から出発し、毒と絶望と羨望と冷笑から目を背けることなく、むしろそれを自らの定義とさえしながら、しかし、やがてまったく異なる場所へと向かおうとする何者か。それはいったいなんと呼ばれるべきであるのか?
とかいてあった。抜粋といってもほぼそのままになってしまってながくなった
でもほんとこうかんがえて感じてるけど言葉にできなかったささくれ見たいなのを綺麗にとってくれる文だね。ただ最後は疑問で終わってる。これは一筋縄ではいかないね

少しづつ交わる空をぼくは何にたとえよう

毎月1日は映画の日
千円にするから国民は映画を見なくてはいけないという日だ
そんな決まりがあるから毎月1日は映画を見る義務を果たしている
今日は「主人公は僕だった」を一人でみた
劇場は映画の日だし週末だということもあって席の3分の1を埋めるぐらいの超満員だ

面白かった!!
こういうのメタフィクションっていうのかな?たぶんそれ
フィクションの仕掛けを意図的に描き出すもの
メタフィクションは、それが作り話であることを意図的に読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示するものらしい
アプローチ的に良作なのでは? 皆が面白いと思うかは別として
小説書いてる高岳が見たら楽しめると思う。
文学勉強してる人はもっと深く楽しめるんだろうな。
色んな面白さが内包してる。
見る側がどれだけ気づけるかかな

「知るよしもなかった」
これが色んなきっかけだけど
教授が言ってたちょうど研究テーマにしようとしていた
語り手の全能性について
 
で今日ちょうど読んだ乙一の「夏と花火と私の死体」ではこの役割は死体。
面白かった。ただ最後はあまり好きじゃいかも

映画は他にも面白どころはたくさんあった。

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